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松谷 それは受けています。
本田 私は日本人ならだれでもある程度のものは受けていると思うのです。受けたバトンを文学にまで高めることがむずかしい。先生は、修羅のなかでお書きになったわけですが、修羅がなければあそこまでの作品は書けなかったのでは…。松谷 ほんとに修羅があったからだと思います。辛いことですけどね。
”書いていけばそこにある”
本田 ほのぼのとした童話の背後に、生半可な修羅ではなかったのが見えてきて、行間にあるもののすごさに打ちのめされるのです。ですから、その奥にあるものが私にはとても興味があります。日本中のだれもがもっている土に、さらに、松谷みよ子という独自の土壌がある。松谷みよ子の根っこにあるものの何十パーセントかは、やっぱりお母さま。もちろんお母さまの背後には、お婆さまへと時代は重なっていきますが。
松谷 母は土佐の人で母の先祖のお墓は高知にあります。あの「おしん」と同じ時代に土佐の山奥で、それはおおらかな楽しい暮らしをしているんですね。私の母はとても家庭的な人でしたけど、子どもの精神には立ち入りませんでした。そこが私は好きでした。母といるととっても自由な気持ちになれて…。
本田 それから黒川能のときに、能的な部分は一切すてて、チラッだけをふくらませていかれるわけですが、捨てるといわれましても先生はこ自分のなかへすてておられる。そして松谷みよ子という作家の細胞をとおして童話という形にして出てくるわけですよね。そのときに、水俣の水銀垂れ流しやチェルノブイリ、東京の排気ガス汚染などがなんの違和感もなしに溶け合ってでてまいります。そこまできて、ああ先生はこれをいいたくて精神的な奥の奥をさぐりさぐりしてこられたんだなあ。そうなのかって呼応するものがあるのです。そういうときは、水俣などが先にあって蛇行なさるのですか。それとも、蛇行なさっているときに出会われるのですか。
松谷 両方でしょうね。だから『死の国からのバトン』を書いたときは、ほらよくいうでしょう。仏師が木の中に仏がいてただ彫るだけだって。えらそうだけどそういう感じてした。書いていけばちゃんとそこにあるんです。そこへいくまでは何年もかかりますけどね。だからいま全集や民話十二冊がおわって、人間大学もいっぱいお手紙がきてて、身内に不幸があったりのてんやわんやなのに次の仕事をしたくてしたくて。
本田 そのように先生を手招きするものはなんですか。
松谷 やっぱりそれもね。出会いなのよ、チラッ、とのね。
本田 『龍の子太郎』の先生のなかでの位置は。
松谷 困るのよね。そういわれると。私のこころのなかっていろんな部屋があって、初期のメルヘン的部屋やらモモちゃんの部屋、オバケちゃん部屋もあるし。だけど太郎の部屋はやっぱり、祖先からもらった空ものがつまっています。
本田 そういう主人公が、先生のなかであばれませんか。
松谷 いまのところはね。民話からいろんなものもらってきて書くときってすごく楽しいんです。もらってくるでしょう。それを組み合わせていくんですけど、それだけでは絶対に書けません。私の視点がなければ動かないし、それもこうきちっと結び目がないと死んだものになっちゃって。その緒び目がなにかというのが面白いのよね。
本田 今回の『龍の子太郎』の公演について一言。
松谷 たんぽぽさんはうんと早い時期に『龍の子太郎』をとりあげられて、またこんどは五十周年記念でしょう。とてもうれしく思います。舞台から、作者が渡したかったものを渡してくださいね。
本田 ありがとうございました。

 

 

 

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